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ユーホームの創業物語 | 株式会社ユーホーム

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ユーホームの創業物語

誕生

昭和28年、今は亡き先代社長が、
弱冠二十歳の時に大工見習を経て独立しました。

当初は大工工事を細々と請け負っておりましたが、
結婚して子供が生まれたのを機に、
現在の津山市西中の地に移り会社を構えました。

時は高度経済成長期、
社業は順調に伸びてゆきました。
当時は「内田組」という社名で個人経営の会社でした。
昭和30年から40年代にかけての頃です。

このころは黙っていても
新築の注文がどんどん入ってくるという時代だったようです。
従業員を何人も雇うようになりました。
ほとんどの従業員が大工ばかりでした。
多い時には7~8人の大工がいました。

たくさんの大工がいるということで、
ビル物件の造作仕事(下請け)も入るようになりました。
そしてこのころから先代社長の持ち前の行動力で
公共工事にも進出してゆきました。
昭和50年代のことです。

受け継がれたもの

先代の社長は根っからの仕事人でお人好しでした。
正当な仕事の対価を遠慮して、負けてあげる人でした。
自分は我慢しても従業員には十分の報酬を与える人でした。

したがって、
多くの仕事をこなしながらいつも会社は火の車でした。
利益を削ってでもお客様に奉仕する考えはずっと変わらず続いていきました。

昭和59年に私(現社長)が結婚を機に入社しました。
いわゆる入り婿です。
工務店経験はゼロ、右も左もわからない状態でした。

住宅の建築現場で「ネコ(一輪車)を取ってきて!」と頼まれ、
「えっ!猫(ニャー)をどうするの?」と思うくらいでした。

とりあえず仕事を覚えなければならないと、
一生懸命現場に出たものでした。

同じころ、Oさん(元専務)が入社してきました。
彼は私より一回りほど年上で、
大阪よりUターンしてきた方で、
設計から施工まで建築のことなら何でも知っていて、
非常にパワフルな人でした。

昭和56年に会社は
「株式会社内田組」となっていました。
そのころから、私とOさんですべての建築物件を
自社で設計するようになりました。

そして、設計を担当した者がそのお客様の担当になり、
施工から集金まですべてを担当するようになりました。

当時は、新築住宅を主力とし、
公共工事の建築工事
そして土木工事にも手を伸ばしていきました。

売上高も次第に増えていきました。
2億円足らずの売上高が、
一時は4億円に迫るほど大きくなっていきました。
しかしながら前述の通り、台所は火の車でした。

責任ある資格者集団へ

Oさんは二級建築士でしたが、入社後しばらくして一級建築士をとりました。
そのころ私も二級建築士を取得していました。
それから4年後には、一級建築士に挑戦することにしました。
仕事上特別にその資格が必要なわけではなかったのですが、
二級より一級のほうが聞こえが良いというくらいの気持ちでした。

一級建築士は資格の専門学校で勉強するというのが一般的だと思うのですが、
このころ専門学校は片道2時間以上かかる岡山市内にしかありませんでした。

どうしようか迷いましたが、
往復4時間を考えると専門学校は断念するしかありませんでした。
専門学校では一級建築士の講習を年末の12月から始めて、
翌年の8月初旬の試験日までみっちり講習があるということでした。

ならば同じように勉強してやろうと、
私も12月から勉強を始めました。参考書は人から借りたものでした。
そのころは土工を中心とした現場作業をほぼ一日中していました。
用事があるときに限り、事務所で設計などの
図面書きや見積もりなどをしていました。
だから毎日夕方にはくたくたでした。

それでも夕飯を食べて夜遅くとも8時くらいには机についていました。
会社の事務所は自宅の1階なので、事務所の私の机が勉強場所でした。
幸いなこと?にお酒が飲めないから、
晩酌が勉強の邪魔をすることはありませんでした。
早ければ7時ごろから夜中の11時前後まで毎晩机についていました。

毎晩3時間から4時間ですが、
決してずっと勉強をしていたわけではありません。

机について参考書を眺めて初めて分かったこと、
それは参考書のなんと面白くないことか!

最初のうちは我慢して読み進めていましたが、
数日たって愚かなことをしていたことに気づきました。

身が入らないままに読んだって一つも覚えていないし、
何の役にも立たない。
それから勉強方法を変えました。
ぐっと気合の入る時にだけ集中して、
それ以外はリラックスタイム。

私の場合集中できる最長が約30分でした。
それ以外はマンガ本を読んだり、
そのほかのことをしたりして過ごしました。

夕方7時から11時までの4時間のうち本当に勉強したのは、
たった30分という日も多々ありました。
しかし、のんべんだらりと勉強をしている
ふりをしているよりましだと思っていました。

年末から翌年の8月初旬の試験日までどうしても抜けられない用事で、
たった二晩だけ机につきませんでした。
日曜日・祝日はほとんど一日中事務所にいました。
そうこうするうちに試験日がやってきました。
朝、試験会場の入り口に数人の人が立っていて紙を配っていました。

その人たちは専門学校の人でした。
その紙に自分の答案した記号を書き入れて帰りに提出すると、
翌日には電話で解答速報を教えてくれるということでした。

翌日電話がかかってきました。
「内田さん、あなたはいったいどんな勉強をされたのですか?」

私が「どうしたんですか?」と聞くと、
「あなたの成績はうちの学校のトップクラスの成績でした。」ということでした。

この後は製図の試験に続くのですが、
さすがにこれは独学というわけにはいきません。
その専門学校にお世話になることにしました。

製図の勉強期間はわずか2か月足らずですが、
この期間はおそらく人生で一番ハードな期間だったと思います。

学校からは毎回必ず宿題が出ます。
深夜12時ごろ帰宅し宿題を終わらせるのが
だいたい午前2時から3時ごろでした。
そして6時には起きて仕事に行くのだから、
今思えばよくやったなと思います。

製図の試験はこの年には合格通知が来ませんでした。
そして翌年の平成2年にやっと一級建築士に合格したのでした。

時代の流れ

私の会社は、
木造軸組工法で純和風の住宅を主に建築していました。

田舎の人口の少ない地区ですが、
競合する会社もあまりなく、
零細な企業にはあまりある新築物件が舞い込んでいました。
構造材も大工が手加工していました。

プレカットが少しずつ流行りだした時も、
プレカットが主流になるとは思ってもいませんでした。

昭和の終わりごろ大手住宅メーカーの
「〇〇ハウス」が津山に住宅展示場を作った時にも、
こんな田舎にプレハブ住宅が流行るはずがないと思っていました。
お風呂も当時はユニットバスなんて
プラスチックでできた風呂が流行るはずがないと思っていました。

大工の手加工する木造軸組工法に徹底的にこだわったわけではありません。
日々とても忙しく過ごしていく中、
世の中の流れが目に入らず、
今とは違ったことを考えたり、
作り出したりして行く精神的な余裕がなく、
世間が変わっていく様子をただボーっと見ていたのかもしれません。

何もしないまま好調を維持することはできません。
平成10年を過ぎるとだんだんと売り上げは落ち込んできました。
何とかしなければこの先会社が立ちいかなくなりそうです。

しかし、
何をすればよいかわかりません。

OB様を大切にする。

色々調べてみると、
会社にはちゃんとしたお客様名簿がありませんでした。
比較的近々のお客様などに年賀状を送る程度でした。

初めてお客様名簿を作りました。
すると、
あることが良くわかりました。

それは一度お客様になった方は何度でもリピートしてくださるということでした。
今までは常に新しい方に目を向けて、
仕事をさせてもらっては古いお客様には知らん顔。
「用事があれば向こうから言ってくるだろう!」
くらいに放り投げてしまっていました。

その時、最も大切なことを学んだのです。

OBのお客様を大切にしなければならない!
おかげ様で、今では売上の90%はOB様のリピートのお仕事です。

そこでまず女性のお客様係を雇いました。
建築の知識などは一切問いませんでした。
定期的に名簿にあるOBのお客様のところを訪問し、
お客様と親しくお話をしてくるお仕事です。

毎回毎回手ぶらで訪問も行きにくいだろうと、
そのうち「うちだぐみニュース(のちにユーホームだより)」を持たせるようにしました。
ここで2か月に一度の、
OB様宅の訪問が定着しました。

今までずっと無策できたから、
今更、新築で地域一番店は無理でしょう。
しかし、リフォームなら地域一番、
お客様を大切にする会社になれると思うようになりました。

まず知名度アップを図らなければなりません。
「感謝祭」というイベントをはじめました。

時を同じく夏休み中に「親子工作教室」を始めました。
毎回結構な人出でしたが知名度アップは
なかなか一朝一夕にはいきませんでした。

改革

しかし、業績は確実に下降していました。
もっとテコ入れしなければならない。
なんとか会社を改革しなくてはならないと思うようになりました。

先代社長はとにかく現場の仕事が好きでした。
事務所内のことは一切せずに現場で重機に乗っていました。
そして周りにいて仕事をする人は同年代の人を好みました。
そのころの平均年齢は60歳を超えていたと思います。

このままでは会社が立ちいかないからとお願いして、
平成18年に社長を交代してもらいました。
動脈硬化を起こしている組織に新しい風を入れることが急務でしたが、
この後着実に実行していくことになりました。

私が社長になって、まず初めに公共工事と決別しました。
小さな会社が二足の草鞋では
十分なお客様サービスに徹することはできないと思いました。

そしてこのころ平成の大合併により、
私たちのあった勝北町は津山市に吸収されていました。
だから、この先公共工事にしがみついていてもだめだろうとの思いもありました。

民間工事一本で行くことを決意しようとしていた矢先のことです。
ある公共入札に指名を受け参加しました。
何気なく入札したものが落札してしまいました。
躊躇せずに辞退しました。
辞退してから知ったことですが、
津山市の場合落札物件を辞退すると1か月の指名停止になり官報に載ります。
新聞の朝刊にも載ってしまいます。

多くのお客様からご心配のお声をいただきました。
すべてのお客様にお手紙を出しました。

『公共工事は国民の生活に資するため、
社会資本を整備するという非常に重要な意義があります。
そしてそれらに関連する様々な産業に雇用が発生します。
建設業もそのひとつですが、社会経済上重要な使命があるにもかかわらず、
業者選定における入札制度には、たびたびテレビなどで取り上げられているとおり
非常に灰色の部分があります。いまさら入札制度を批判するものではありませんが、
弊社は公共工事と決別することによって、灰色の世界から脱却し、
常にクリーンであることを選択しました。
お客様に与えた悪いイメージを払拭することは、
簡単なことではありませんが、
従業員一丸となって信頼を取り戻すべく努力する所存ですので、
ご支援くださいますようお願い申し上げます。』

同時に同業者団体の協会を脱退しました。
同業者は称賛してくれました。
自分も余力があれば今すぐにでもやめるのにと言っていました。
ちなみにその後1年以上旧勝北地区内の公共工事の入札はゼロだったということです。
そしてその当時旧勝北町新野地区に6店あった建設業者は、今では1店もなくなったのです。

新しい一歩

次に社名変更をしました。
以前からもご指摘がありましたが、いかにも土建屋を連想させる現社名「内田組」が、
多数のお客様に好印象を与えていないと思いました。

それどころか、特に若い年代のお客様には暗く重たい印象を与えていると思いました。
皆様に愛される企業であるためには、社名の持つ印象も非常に重要であります。
そこで社名を変更することにしました。

特別にこだわった社名も思いつかないため、公募にすることにしました。
新聞広告で募集したところ179通の応募がありました。
その中で上位3つを抽出し、
「第5回 感謝祭」の来場者の投票により決定させていただきました。
公明正大に、一番、多い投票を選び、決まったのが現社名の
「株式会社 ユーホーム」です。平成19年春のことです。

「感謝祭」や「工作教室」をしたり「水回りの展示会」を開催したり、
せめてリフォームで地域一番店になろうと躍起になっていたころです。

業績も最悪期を脱しつつありました。
そのような中、平成20年9月のことです。
私が最も信頼し、私の片腕となってくれた
専務取締役のOさんが病気に倒れました。

何の前触れもなく急な出来事でした。
スポーツマンで頑丈で、ほとんど風邪すらひかない人でした。
「あなたのような丈夫な人が、急に逝ってしまうんで!」
などと、よく笑い話をしていましたが現実となってしまいました。

O専務と私ですべての現場を受け持っていたから、その後は本当に大変でした。

新築から増改築あるいは軽微なリフォームまで、
全部で15か所くらいの現場を、すべて見なくてはならなくなりました。
しかしここでもO専務に救われました。
彼は非常に几帳面な人ですべての情報をよくわかるようにまとめていました。
この几帳面さのおかげで途中から引き継いだ物件も、
なんとか無事に終えることができました。

新しい風

大きな戦力を無くしましたが、
呆然としている暇はありません。
とりあえず人が足りません。
私の息子(現専務)が大阪の大学を卒業後、
同業他社に就職していました。
そこで、無理やり帰ってもらうことにしました。

その他、給排水工事のスペシャリストを獲得するなど
人員刷新をはかりました。
また、若い人を採用するなど、
大幅な若返りを果たすことができました。

上得意のお客様から、
「私が知っている人は一人もいなくなった」
と言われることもありますが、
そのかわり
「若い人たちばかりで、きびきびとしていて気持ちが良い!」
「挨拶が気持ちよい」
「丁寧な対応をしてくれる」
「早く対応してくれる」
「皆良い人ばかりだ」などのお褒めの言葉も、
たくさんいただくようになりました。

平成27年からは電気工事も自社施工となり、
これにより給排水・下水道工事も電気工事もすべて自社施工になりました。

若返ったユーホームはここにきてやっと動き始めたところです。
今後次第に動きを強め、
何とかして「地域一番店」名乗ることができるまで、
従業員一丸となって突き進みたいと思うところです。

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